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セルジュ・ゲンズブールに会いに行った。 [お墓]

パリ、オルセー美術館に近いヴェルヌイユ通りをずんずん歩いているとこんな非道い家がある。


非道い落書き!!!非道い縦列駐車!!!

欧州の大都市では落書きがあちこちに見られる。
これは残念なことで、美しきプラハの街を訪れた際も、
中心部から少し離れると意味不明な落書きが散見されて悲しかったのだ。
しかし、上記写真の住居壁面の惨状は凄まじいものがある。
これは殆ど嫌がらせではないか。これでは住人は精神的に多大な苦痛を被ってしまうだろう。
心配になって、中の様子を伺ってもみたが、人がいる様子はなかったのである。大丈夫だろうか。

実は、これは嫌がらせではない。多分。
というのも、ここはかつてセルジュ・ゲンズブールが住んでいたところで、
ゲンズブールを愛するファンたちが落書きを残していったのであろうと思われたからだ。
ゲンズブールという人は滅茶苦茶な人生を送った人で、
数々のエピソードから、私は横山やすしという人を思い起してしまったのだった。

ゲンズブールは、この落書きだらけの家にはもういない。
ゲンズブールにはモンパルナス墓地に行けば会うことが出来るのである。
メトロに乗ってモンパルナスへ行くとよい。
そして、メトロの切符をゲンズブールのお墓にお供えするとよい。
実際、ゲンズブールのお墓はメトロの切符が散らばっている。
これは、ゲンズブールの「リラ駅の切符切り」という曲に因んでのことらしい。
もちろん、酒やタバコをお供えしてもゲンズブールは喜ぶであろう。キャベツでもよいみたい。


花が絶えないセルジュ・ゲンズブール (1928-1991) のお墓。


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ジュゼッペ・ヴェルディに会いに行った。 [お墓]

ミラノにある記念墓地には名指揮者トスカニーニのお墓がある。
ミラノにやって来て、初っ端から記念墓地を訪れようとしている人がどれだけいるか知らぬが、
私は、最後の晩餐、大聖堂そっちのけで記念墓地へ向ったのである。
が、記念墓地に向う中途から嫌な予感がし始めたのだ。


ミラノ記念墓地前にて。

というのも、この日は5月1日であり、労働者の祭典メーデーだったのである。
私は宮殿のようなミラノ中央駅前にあるマクドナルドの前で横断幕を掲げ、
何やらシュプレヒコールをあげている人を見ていたのだった。
日本は違うが、欧州ではメーデーは休日である。
記念墓地ももしかして閉まっているのと違うか?と考えてしまったのである。
墓地にメーデーが関係あるかどうかはよくわからないけれども、ともかく記念墓地前へ。
様子を窺ってみたが、やはり人間の姿は皆無で、開かれている様子が無かったのだった。
トスカニーニに会いたい!と闖入したとしても、癇癪持ちのトスカニーニのことである。
罵倒され、けちょんけちょんになって記念墓地を出なければならぬことは明白であった。
無念だが、トスカニーニとの会見は断念したのである。

しかし、もうひとりミラノにおいて会見したい人物がいて、その人はジュゼッペ・ヴェルディであった。
ヴェルディは「国民的英雄」扱いで、存命中より絶大な人気を得ていた人である。
その葬儀には25万人が集まったとも言われている。まったくよく数えたものである。

さて、ヴェルディのお墓は記念墓地には無い(以前は記念墓地に埋葬されていたようであるが)。
ヴェルディが現在いるのは「憩いの家」というところで、
地下鉄でBuonarrotiという駅で降り、地上に出るとすぐ目の前にある。
ここはヴェルディがリタイアーした音楽家たちのために建てた老人ホームみたいなところである。
実際、様々な楽器の音が鳴っていたと記憶している。


「憩いの家」

関係者以外はこの「憩いの家」に立ち入ることは出来ないが、ヴェルディのお墓だけは別である。
ずんずん入っていって、受付の兄ちゃんに「ヴェルディさんに会いたいです」と告げるとよい。
きっと優しい兄ちゃんが門戸を開放し、中庭の回廊を抜けたところにあるお墓に案内してくれる。
そこで私はヴェルディと暫しふたりきりで語りあったのだった。
老人ホームにメーデーは関係無かったようで、ヴェルディ氏との会見は大成功に終わったのである。


ジュゼッペ・ヴェルディ (1813-1901)のお墓。


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石川啄木終焉の地 [お墓]

石川啄木といえば「天才詩人・歌人」と謳われる明治期の人であるが、
私は啄木の詩集、歌集を精読したことは無い。
それでも、いくつかの歌はなんとなく知っている。
「ぢっと手を見る」とか、「たわむれに母を背負いて」とかは有名だから知っている。
この人の歌のイメージは、貧窮し、困憊しているイメージである。

が、啄木はかなりの遊び人だったということを聞いた。
貧しい生活を歌ったのはよいが、それは自分が遊んでいたからと違うのか?
そんな風に憤りを覚えもしたが、その考えは短絡的であるかも知れぬ。
遊んでいたから素晴らしい文学作品を残せたのかも知れぬではないか。
うむ。ろくに啄木の作品を読んだことのない私が啄木について語ることは自ずと限界があるので、
あまり適当なことを載せてもいけないなあ。

じゃあ、なんで啄木の記事を載せたのかというと、今日は啄木の命日だからである。
今日私は、啄木終焉の地を訪れた。
実は夕刻になるまで、訪れようという気はまるで無かったのだが、
偶さか近くに終焉の地があることを知り、啄木の命日ということもあって、訪れることにしたのだ。

場所は文京区小石川5丁目11番7号である。
私は地図など持たず、この住所のみを頭に叩き込み、界隈を歩き始めた。
5丁目11番の周囲を彷徨っていると、このようなボロい看板を発見した。


携帯で撮影、日が暮れたこともあり、何とも怖ろしさを漂わせる画像である。

ボロ看板の指示通り、左折し15m進むと(15m測ったわけではないが)そこはあった。


お花が供えられていたが、携帯で撮影、日が暮れたこともあり、やはり怖ろしさを感じさせる。

啄木はこの地に1911年8月に転居してきたらしい。
しかし、すでに深刻な病に蝕まれていた啄木はなんら創作活動をすることが出来なかったという。
啄木がこの地で永眠したのは翌1912年4月13日のことであった。27歳の若さであった。


ここは啄木終焉の地であって、啄木のお墓ではない。
お墓はどこにあるのか調べてみたが、何と函館にあるということだった。


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