SSブログ

コルビジェに会いに行った。 [お墓]

日本の紙幣は千円札、二千円札、五千円札、一万円札の4種類である。
もちろん板垣退助の百円札もあるし、岩倉具視の五百円札もあるのだけれども、
こんなのを使っている人を見たことがない。実質、日本で流通している紙幣は4種類だといえよう。

さて、旅行かなんかで来日し、日本の紙幣を使用する外国人は野口英世を知っているのだろうか?
紫式部を知っているのだろうか?
樋口一葉を知っているのだろうか?
福沢諭吉を知っているのだろうか?
よくわからないが、私がスイスへ旅行した時に使用したスイス紙幣のことを考えてみた。

スイス紙幣の肖像は以下の通りである。
10スイスフラン…ル・コルビジェ(建築家)
20スイスフラン…オネガー(作曲家)
50スイスフラン…アルプ(画家)
100スイスフラン…ジャコメッティ(彫刻家)
200スイスフラン…ラミュ(評論家)
1000スイスフラン…ブックハルト(歴史学者)

名前を知っていたのはコルビジェとジャコメッティだけであった。
今日はコルビジェのことを載せようと思ったのだけれども、なんだか長い前置きになってしまった。
しかも、これはあまり意味のない前置きである。
要するにコルビジェはスイス紙幣の肖像に使用されていると言いたかったまでのことなのだ。

コルビジェは確かにスイス生まれだが、亡くなったのは南フランスなのである。
私は2004年、コルビジェが晩年を過ごしたカップ・マルタンの小屋を訪れた。
ロクブリュヌ・カップ・マルタン駅はモナコのモンテカルロ駅の隣の駅だったと記憶している。
無人の駅である。この無人の駅で降り、マントン方面に線路づたいに歩くこと10分。
コルビジェが晩年をすごした休暇小屋はあるのだ。


これがその休暇小屋である。
中の様子は予約をすれば見学することが可能であるのだが、
私は予約をしていなかったので外観を眺めるのみ。
しかし、何と簡素な小屋であることか。世界的建築家が辿りついたのがこの小屋であった。


小屋からは碧い地中海を望むことが出来る。
1965年、コルビジェはこの海で海水浴をしていて亡くなったのだった。

コルビジェのお墓もカップ・マルタンにあり、この地中海を見渡せる素晴らしい場所に位置している。
地中海を見渡せるということはコルビジェのお墓は高いところに位置しているのである。


コルビジェの墓参をするためには、この小高い山を登らねばならない。
シャトーが頂上に見える。いわゆる「鷲巣村」と呼ばれるところで雰囲気たっぷりである。


急な階段を登ってゆく。シャトーが見えてきた。


でも、疲れる。


30分程登ると、墓地を指し示す標識を発見。

汗だくになり墓地入口に辿りついた。
コルビジェは墓地のH地区に埋葬されているとの情報を得ていたため、
お墓を発見するのは容易であった。


美しい地中海を背景にコルビジェのお墓は存在した。
これも立派なコルビジェ作品なのであった。


nice!(5)  コメント(6) 
共通テーマ:旅行・地域(旧テーマ)

カレル・チャペックに会いに行った。 [お墓]

ここのところ映画に関する記事が続いた。
今回はカレル・チャペックに会いに行った話を載せることにしたい。
カレル・チャペックという人はチェコの作家で、「ロボット」という言葉を創作した人である。
「ロボット」という言葉はチェコ語が元になっているのである。
チャペックは「R.U.R.」という戯曲で史上初めて「ロボット」という言葉を用いたのだが、
この作品、私は今に至るまで未読である。
ただ、「ロボット」というあまりにも馴染み深い言葉がチェコ語だったということはインパクトがあり、
チャペックという人物の名は私の記憶に深く刻まれることになったのである。

チャペックという人は、ノーベル文学賞の呼び声も高い人であったようだけれども、
1938年、48歳の若さで亡くなってしまった。
プラハを旅した際、私は作曲家スメタナ、ドヴォルジャークの墓参をしたく、
ヴィシェフラド墓地を訪ねたが、チャペックもこのヴィシェフラド墓地に眠ることが旅行前に判明。
私はチャペックの墓参もしようと思い立ったのだが、著作を一冊も読んでいないのでは非道すぎる。
急遽私は「ダーシェンカ 子犬の生活」という新潮文庫から出ている本を購入し、読了したのだった。
「ダーシェンカ」とは子犬のことで、チャペックは愛情たっぷりに「ダーシェンカ」の描写をしている。
チャペック自身による「ダーシェンカ」のユーモラスなイラストが多数掲載され、心洗われる本である。
今、本棚から取り出してパラパラ見ているのだけれども、もう一度読みたくなってしまった。


中央のロケットのようなのがカレル・チャペック(1890-1938)のお墓。
カレル・チャペックの死の翌年、ナチスがチェコに侵攻。
カレルの兄、ヨゼフは画家であり、カレルの本の装丁を手掛けていたが、
ナチスに捕えられ、強制収容所で最期を迎えたのだそうだ。
 

ダーシェンカ―子犬の生活

ダーシェンカ―子犬の生活

  • 作者: カレル チャペック
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2001/01
  • メディア: 文庫


nice!(2)  コメント(2) 
共通テーマ:旅行・地域(旧テーマ)

アンリ・マティスに会いに行った。 [お墓]

確か一昨年に「マティス展」というのが開催され、私はこれを観にいったのである。
初期の油絵から晩年の切り絵まで、私は十分に楽しんだのだけれども、
印象的なのは切り絵の「ジャズ」の連作であった。
「ジャズ」とは言い得て妙で、確かに「切り絵」の即興性はジャズと通じるようにも思うのである。
マティスの切り絵を観ていると、トランペットの咆哮が聴こえてくるようなのだった。

マティスは何故に「切り絵」という手法を用いたのかというと、
それは、「紙切り」の林家正楽師匠に心酔していたからではなく、
健康上の理由で絵筆を持つことが困難になったからだと記憶しているが、
むしろ、「切り絵」という手法は色彩の構成の独創性をマティスに与えたようである。
これらの「切り絵」は南仏のニースにおいて作成されたというが、
確かに、パリよりも地中海の温暖な気候の下で生み出されそうな作品群だと勝手に思ったりした。

このように「切り絵」で色彩の可能性を追求し続けたマティスであるが、
そのマティス晩年の最高傑作と言われるのがロザリオ礼拝堂である。
ロザリオ礼拝堂は南仏ヴァンスにあるのだが、私はここを訪れたことは無い。
ただ、ニースのマティス美術館は訪れたことがあり、
ここにはロザリオ礼拝堂制作のためのデッサン、模型などが展示されているのだった。


ニース、マティス美術館の日本語小冊子。

さて、もしニースのマティス美術館を訪れる機会があるのだったら、
すぐそばにあるシミエ修道院を訪ねれてみては如何だろうか。
アンリ・マティスに会うことが出来るからである。


シミエ修道院


修道院敷地内には、このような看板が複数設置されており、迷うことは無い。ありがたいなあ。


アンリ・マティス (1869-1954) のお墓。
シミエ修道院には、やはり画家のラウル・デュフィ (1877-1953) のお墓もある。


マティス美術館前ではおっさんたちがペタンクに興じていた。


nice!(3)  コメント(6) 
共通テーマ:旅行・地域(旧テーマ)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。