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グレース・ケリーに会いに行った。 [お墓]

今日はどんなお話をここに載せようかと悶え苦しんでいた私。
こういうときは「今日は何の日」であるかを調べ上げるとネタが見つかったりするものなのだが。
というわけで、4月18日は過去にどのような事件が起きた日であったか調べてみた。

・ジンバブエ独立 (1980年) 
・第1回アジア・アフリカ会議 (1955年)
・国際アマチュア無線連合結成 (1925年)

駄目だ。これらに関連する記事を掲載することが出来ない。
ジンバブエもアジア・アフリカ会議も国際アマチュア無線連合もよく知らないのである。
更新を断念しようかと思いきや、1956年の今日はこんなことが起きた日であった。

・グレース・ケリーがレーニエ3世と結婚 (1956年)

お。これなら記事にできるかもしれない。
グレース・ケリーという人は人気の絶頂でモナコ王妃となり、
女優業を引退してしまったから、出演作品数は多くはない。
私が鑑賞したのは「裏窓」、「泥棒成金」といったヒッチコック作品と「真昼の決闘」のみである。
私はそのグレース・ケリーのお墓を訪れたことがあるのだ。今日はこのお話を載せよう。

モンテカルロの駅を出てぜえぜえ言いながら坂道を登っていくと大公宮殿がある。
ちょうど衛兵交代の時間であったので交代式を見物しようか知らんと待望していたのだが、
小雨が降っており、交代式は中止となり私は悄げた。


大公宮殿前にて。衛兵交代中止の看板に見入る人々。

それでも、気を取り直しグレース・ケリーに会わんとモナコ大聖堂へ。
現在グレース妃が眠っているのが、このモナコ大聖堂というところで、
ここはモナコ公室の人々のお墓がズラリとあるところなのである。


モナコ大聖堂

大聖堂の奥まったところに歴代の君主のお墓がある。グレース妃のお墓はどこだろうか。
ただし、グレース妃の墓碑には「グレース・ケリー」と刻まれているのではないのである。
じゃあ、たいそうわかりにくいであろうと思われるかもしれないけれども、そんなことはない。
グレース妃のお墓にはお花がいっぱいであるし、
観光客が皆グレース妃の墓石の前で立ち止まり、行列がつっかえてしまっているので、
ははん。このつっかえているところがグレース妃のお墓であるのだなあと認識できるのである。
そして、恐らくは「立ち止まらずに進んでください」というような趣旨の注意をしている警備員がいる。
宍戸錠に似ているおっさんであった。


グレース・ケリーのお墓。

昨年、レーニエ3世が亡くなったけれど、私がモナコを訪れたのはその一年前のこと。
今ではレーニエ3世もモナコ大聖堂で眠っているのだろう。


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サルバドール・ダリに会いに行った。 [お墓]

ダリ美術館入館後、目撃することとなったのはぶっ壊れた自動車であった。
よく、高速道路のパーキングエリアなどで凄惨な事故現場の写真を用いて、
ドライヴァーの注意を喚起、交通事故撲滅を哀訴するポスターが掲示されているが、
そのポスターを髣髴とさせる事故車が出現したのである。
いや、あそこまで大破はしていないか…。どうぞ、皆さん安全運転を…。

この車、サイドガラスが目茶目茶になっており、そこから中の犠牲者の様子を窺うことができる。
見ると、犠牲者は血塗れで眼をカッと見開いたまま絶命しているようだった。
そして、そこを何故かカタツムリが這っていた…。嗚呼。ダリ・ワールド…。
それだけではない。ボンネット部分に尻の大きな人がドゥォンと突っ立っているのである。


事故車を覗く人。よく見ると偽オスカー像がここにも…。

まさにシュールである。理解はできないが、できなくともよい。これはこれで面白い。
私はこの事故車をバックにフランス人のおっさんに写真を撮ってもらった。
このおっさんは私のデジキャメの操作方法がよくわからなかったようで、
同じような写真を3枚も撮っていた。まあよい。これも思い出である。
この事故現場を後にした私は大きなホールのような空間に出た。
現在、サルバドール・ダリはここに眠っているのである。


サルバドール・ダリ(1904-1989)のお墓。

フィゲラスはダリの生地であるとともに没地でもある。
今、ダリはこうして自らの美術館で眠りについているというわけだ。
ただし、そのことを示すプレートのような類のものは一切無いので、
事情を知らぬ入館者からは上記写真のように踏んづけられてしまうのだと思われる。

私はダリが亡くなったときのことを憶えている。
まだ小学生時分であり、ダリがダリであるかはよく知らなかったけれども、
亡くなったときは憶えている。
それは、テレヴィジョンでしきりに奇妙なヒゲをはやした変な人物の姿が放映されていたから。
飛行機のタラップをバゲットの杖を突いて降りてくるダリ。物凄いインパクトであった。
だから憶えているのである。嗚呼、そのダリと今、こうして面会できたのだなあ。
だけれども、恐らくはここがダリの墓であることを知らない輩が大多数で、
ダリは踏んづけられてばかりなのだった。それはそれでまたダリらしいような気もするのであるが。

ここ、ダリ美術館は美術に興味の無い人にもお勧めの場所で、
なぜならば、ここには美術館特有の堅苦しさのようなものがあまり無いからで、
偽オスカー像に脱力してしまったあなたならば、もうダリ美術館を堪能できること間違い無し。
下の写真の大掛かりな作品も、ダリ美術館では大人気である。


こんな空間が突如現れるのでは、油断も隙もあったもんじゃない。

なんだす?これは?
私としては鼻腔に詰まっている金塊は何であるのかが気になるところ。
ま、この画だけからでも、この空間は人間の顔になっているらしいことは推測可能だけれども、
完全を求めるならば、列に並ばねばならぬ。


列に並んで階段を上がるとレンズが設置されている。ここから覗くとどうなるか。


狭隘な空間で列に並ぶこと数分。レンズから覗くとこうなった。「メイ・ウエストの部屋」。

もちろん、ダリ美術館はこのような巨大な作品ばかりがドゥォンと置いてあるばかりではなく、
妻ガラやバゲットを描いた油彩画なども充実しており、横綱審議委員会も大絶賛であろう。
美術ファンも当然の如く楽しめると思われたのだった。

えー。バルセロナを訪れるあなた。
ここはバルセロナから日帰りが十分可能な場所ですので、フィゲラスも如何と思いましたでした。
うあっ。いかん。バルセロナへ引き返す時間が迫っている…。


ダリ美術館ミュージアム・ショップにて購入した「タマゴ・マグネット」。


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ジョアン・ミロに会えなかった。 [お墓]

モンジュイックの丘の頂にある墓地とは「Cementiri del Sud-oest」という墓地のことで、
つまりは「南西墓地」ということか。
モンジュイックの丘を散策するのはよいけれど、南西墓地へ向かう旅行者はあまりいないだろう。
尤も、私は旅行者というより取材者なのであるが。


「南西墓地」を示す看板。

この南西墓地にジョアン・ミロのお墓はあるはずなのだ。
「あるはず」というのはどういうことであるかというと、
取材前、様々な文献でミロの生涯について調査した際、
「ミロは現在モンジュイックの丘にある墓地に眠っている」というようなことが記載されていたからで、
そのモンジュイックにある墓地というのはこの南西墓地以外無いと思われた。
えー。つまり、愚生りんこうはこの文脈において何が言いたいのであるか。
えー。その内容は、

ミロのお墓はモンジュイックの墓地にある。
        ↓
モンジュイックにある墓地は「南西墓地」。
        ↓
よってミロのお墓は「南西墓地」にある。

という三段論法で端的に示すことができるのである。


「南西墓地」へ。が、誰もいない。

南西墓地へ辿りついてみると、入口付近に地元の人間が数人たむろしているのみであった。
メーデーであったから墓地は開いているのかどうか、と疑心暗鬼を生じていた私だったけれど、
墓地の中から人が数人出てきたので、墓地は開いていると判断。
私はジョアン・ミロに会見せんとずんずん墓地内部へ進入したのである。


モンジュイックの頂から。

この南西墓地でジョアン・ミロの魂と会談した後、最前のミロ美術館を訪問したならば、
また違った感慨を得られるであろうと考え、私は張り切ってミロのお墓の探索を開始。
が、その直後、私は自分の蒙昧さを呪うこととなった。
なぜならば、南西墓地があまりにも巨大な墓地であったからで、
私は、この眼前に広がっている全容の知れぬ巨大墓地に狼狽しながら、
殆ど本能的に南西墓地の高みに上り、ミロのお墓はないか知らんと見渡すのだった。

阿呆である。そんなことをしてもミロのお墓なぞ見つかるものか。
高みから眺め、墓石に刻まれた「Joan Miro」の文字が肉眼で確認できるなどと考えているのか。
で、結局、南西墓地の高みから見えたものといえば、バルセロナの海。


海は広いな。大きいな。

しかも、この日は、暑かった。さらに、丘にある墓地なので、高低差がある。
ミロに会わんとするならば、あまたの階段を昇降し、墓地内を探索しなければならぬのである。
ただでさえ汗っかきの私。何度、私の汗の滴が南西墓地の地面に滲みこんでいったことか。
人がいればよい。尋ねることができる。が、全くといっていいほど無人の南西墓地じゃないの。
私は切なくなってきたよ。とぼとぼ墓地内を歩んでいると、バス停があった…。
墓地内にバス停…。やはり大きな墓地なのだった…。
時折、車で墓地内を通過する人はあったけれども、その車を止めさせて尋ねる勇気もない私。
一時間強、墓地内をとぼとぼ歩いていた私は、ついにミロに会見することを断念したのだった。


「南西墓地」の看板。

この巨大墓地からミロのお墓を探し出すというのは、もはやいくら時間がかかるかわからない。
「おそ松くん」のおそ松、チョロ松、トド松、カラ松、十四松、一松を識別するくらい難儀なことだ。
ペットボトルの水分も底をついた。墓地の中で脱水症状で発見された日本人。
そんなことをロイターに外電されたくはない私は、無念ではあったが、南西墓地を後にしたのだ。

ううう。ミロに対して苦々しい思いを抱えることとなってしまった。
これはミロの作品群を鑑賞するにあたり、何か悪影響があるんでないのかしら。
そう思いながらも、ミロ美術館のほうへ引き返していった私なのだった…。


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